私が面接でよく聞く質問に:
生活するために働かねばならない、ということが仮になかったとしたら、
仮に、一週間何をしてもいい、と言われたら、何をしますか?
# 仙石浩明CTO の日記: 面接 FAQ (4) から引用
というのがあるのであるが、 意外なまでに多くの人がこの質問に答えることができない。
そんな馬鹿な、何をしたいか分からないなんて、 そんなことが有り得るのだろうかと思っていたのだが、 あまりにこの質問に答えられない人が多いので、 一つの仮説を立ててみた。
好きなことがない、あるいは明確にこれが好きと言えない人たちというのは、
「他の人に勝つ」ということに価値を見いだせない人たちなのではないか?
つまり、私の場合だと、 他の人にできないことが自分ならできる、 ということに自身の存在理由を求め、 この分野なら他の人に勝てる、という分野を追い求めてきた。
他の人に勝てれば、その分野が好きになるし、 好きになれば、それだけいっそうその分野に注力することになる。 そうすることによって実力がついて、 よりいっそう他の人たちより優位に立てた。 そういう正のフィードバックによって実力を磨いてきた。
だからこそ、私にとっては 好きなこと = 他の人に勝てる分野
なのである。
この感覚が、 私にとってはあまりに自然な発想だったので気付かなかったのであるが、 もしかすると私が自明なものとして疑うことがなかった 「他の人に勝つ」という大前提が、 人によっては、それほど重要なことではないのかもしれない。 いや、むしろ他の人と同じであることに価値を見いだす人たちなのかもしれない。
他人と同じことに価値を見いだしてはいませんが…
私の場合ですと、自分の人間性を高めたいという希望があった場合、
「他人に勝つ」ことにそれほど価値を感じないです。
(ここでいう人間性は他人より優位であるとかいうことではないです)
例えば…、
・思いやりがある
・人の気持ちがわかる
・ゆったりとした時間を満喫できる
は他人に勝ったところでできることではないですし、そもそも勝負することでもないです。
Comment by bon — 2006年5月13日 @ 12:22
人間性を高める、というのは素晴らしい目標だと私も思います。
ですが…、技術者を面接しているときに、「私がやりたいのは人間性を高めること」という答が返ってきて、「技術者として何がやりたいか」については、全くお話いただけなかったとしたら、おそらく私はその人が技術者向きではないと判断せざるを得ないです。面接というのは人間性だけでなく、技術者としての適性を見る場ですので (^^;)
Comment by 仙石浩明 — 2006年5月14日 @ 06:39
『仮に、一週間何をしてもいい、と言われたら』についての話だったのに、『「技術者として何がやりたいか」については、全くお話いただけなかったとしたら』ってどういうこと?
Comment by ban — 2006年6月13日 @ 20:36
bon さんが私の面接を受けに来る、ということはなさそうですから、確かに関係ない話でしたね。はぐらかしたみたいな感じになってごめんなさい。
Comment by 仙石浩明 — 2006年6月13日 @ 21:34
負けることを恐れるあまり、勝つことに価値を見いだせなくなってしまった人たち
「『他の人に勝つ』ということに価値を見いださない人たち」に頂いたコメントから発展して、
/.j 方面でいろいろなコメントを頂いた。
いろんな考え方の人たちと議論することによって
考えが深まるので大変ありがたいことだ。
曰く:
この方は競争に勝つために勝て…
Comment by 仙石浩明の日記 — 2006年6月14日 @ 08:11
お初です。
その仮説には “好きなこと = 他の人に勝てる分野” という前提がありますよね?でもその前提の「好きな事」と「勝てる事」はどちらが原因でどちらが結果ですか?このエントリを読む限りでは「勝てる事」が原因のように読めます。
私にとっては「好きな事」が原因で「勝てる事」は結果です。なので少なくとも私にとっては「好き」そのものには勝ち負けはあまり関係ないんです。
たぶんこのことは想定外だったのだと思います。価値観が違うわけですから想定外も当然でしょう。
ですが、勝負に軸足を置いていないというだけで「他の人と同じ」や「負ける事…」のエントリのように「勝負アレルギー」のようなものを想定されるのはステロタイプによる決めつけであり、あまり愉快な事ではありませんね。
# 違うからこそやる意味があるし、違うからこそ存在する意味もあると考えているのでなおさらです。
Comment by tarosuke — 2006年6月15日 @ 03:22
/.j よりお越しいただきありがとうございます。
詭弁のように聞こえてしまうかもしれませんが、「ほかの人たちより私はコレが好き」って思うことはありませんか?
「「好き」そのものには勝ち負けはあまり関係ない」ものを、具体的に例をあげていただけると、もっと分かりやすい説明ができるのですが、例えば「他の人より私のほうが、コレの良さが分かってる」とか思うことってあるのではないかと思うのですが、いかがでしょう?
「勝ち負け」って言ってしまうと、確かに意味が狭まってしまいますね。では、「人より『上手く』やる」ではどうでしょう? あるいは、「私はコレに特別な思いいれがある」という表現ではどうでしょう? 「特別」すなわち「他の人とは違う」ということですよね?
原因と結果、それはそんなに固定的なものでしょうか? 「好き」だから「人より上手くできる」でも、その逆に「人より上手くできる」から「好き」でも、そんなに差はないかもしれませんよ。例えば、「コーディングが人より上手くできる」場合、いきなり上手にできることは稀で、普通は「なんとなく好き」だからコーディングにのめりこむ、という「原因」があるんじゃないでしょうか。
Comment by 仙石浩明 — 2006年6月15日 @ 08:30
ありますよ。でも詭弁に聞こえますね。というのはですね「勝つ」や「人より『上手く』やる」と「ほかの人たちより私はコレが好き」というのはそもそも比較対象の性質が異なるからです。そのように対象を替えてしまったらもはやそれは言い替えとは言えないでしょうから。
同様に「人より『上手く』できる」と「私はコレに特別な思いいれがある」には、かなり隔たりがあるように感じます。
「なんとなく好き」だからコーディングにのめりこむ、という「原因」がある。だからこそ原因と結果が固定的になるので、勝てることは原因ではないのではありませんか?そういう場合が存在することは否定しませんが、他に制約がない状況では勝てるという理由で好きでもない事を続けるのはあまり幸福な事ではないと思います。
Comment by tarosuke — 2006年6月15日 @ 16:27
具体的な例をあげないことには、これ以上は難しそうですね。分野によっては、「人より『上手く』やる」と「ほかの人たちより私はコレが好き」が似てくる場合もあると思いますので。たとえば、コンピュータだと、「ほかの人たちより好き」と「上手」は似てきますよね?
「人より『上手く』できる」と「私はコレに特別な思いいれがある」との間に、かなり隔たりがある例って、たとえばどんなものがあるでしょうか?
勝てるようになるには、やっぱり好きであることが必要なのでは? 好きでもないのに、人に勝てるほど上達することって、なかなか考えにくいのですが… コーディングが嫌いな人が、コーディング上手になることって… なさそうですよね? 好きでもないけど勝てる、って例えばどんな場合が考えられるでしょうか?
おそらくたいていは、「なんとなく好き」かつ「なんとなく上手」という状態なのでは? そういう状態からスタートして、「好き」かつ「上手」になるのでしょう。どちらが原因でどちらが結果なんてことは判然としないケースがほとんであるような…
Comment by 仙石浩明 — 2006年6月15日 @ 18:50
初コメントします。
自分は、好きなことと、他人に勝つことがなぜイコールになるのか、わからないんですが…。
他人に勝つ事って、巨視的に見た場合、そんなに大事じゃないように思います。
それより、客観的に見て、少しでも自分の好きなことが上手くなっていることに重要性や喜びを覚えるんですけど…。
他人に勝って、喜んだって、世界にはそれ以上の人間がいっぱいいると思うし、ある種のルール違反すれば簡単に勝てると思うのですが、そのような状況で、他人に勝つことの意味、価値がわかりません。
お答えいただけると幸いです。
長々と失礼しました。
Comment by 碁徒 — 2007年5月12日 @ 17:33
「ある種のルール違反すれば簡単に勝てる」っていう発想が出てくるのが不思議というか、異常というか… まるで、「勝者=要領がいい人」と言わんばかりですね。勝者に対してそんな色眼鏡で見る習慣は決してプラスにはならないと思いますよ。
「勝つことではなく、参加することに意義がある」って言葉が、よほど深く浸透してしまっているのかもしれませんねぇ… あまり健全なことではないと思うのですが。そもそも、「参加する」ってのは予選を勝ち抜いた結果であるんだし。
「客観的に見て、少しでも自分の好きなことが上手くなっていること」って、結局は他者との比較において「上手くなっていること」が「客観的に」確認できるのだと思います。他者と比較しなくても「上手くなっていること」は実感できる、って言い張る人もいるかもしれませんが、なぜ「実感できる」のか、よくよく考えてみるのがいいのではないかと思います。
Comment by 仙石浩明 — 2007年5月13日 @ 08:47
異常ですか・・・
えぇ、そうですね。
勝者に対して、色眼鏡で見る習慣は直そうと思います。
お答えありがとうございました。
Comment by 碁徒 — 2007年5月13日 @ 18:18
他人に勝つということにあまり価値を感じないというコメントがありますが
私は、勝ちたいですね
勝負とか好きですし(ギャンブルはしない^^;)やはり、好きなことで賞をとったり賞賛され、仕事や地位を築けたという経験があるからか、人間は、社会で自分の場所を確保するために、勝ちたいと思うのが自然なのかなと思ってしまうのですが・・・
まあ、いろいろな考え方があるから面白いですね。私は仙石さんのおっしゃること同意できるところが多いです
Comment by たま — 2009年10月4日 @ 04:13
好きなことをするのに、一体なんだって他人を尺度にするんですかね。
勝てればそれでOKってことでしょうか。裏返せばその程度の意識なんですかね。
勝負にやたらとこだわる某カルト団体もおりますが(笑)。
Comment by HogeHogeMan — 2011年5月25日 @ 23:10
ごぶさたしています、といっても仙石さんはお忘れかもしれませんが。トップからリンクをたどってやってきました。
亡夫が逝って10年、幸か不幸か金銭のための労働とはほぼ縁のない歳月を送ってまいりました。自分では無為に過ごしたつもりはないのですが、それは他の方がみれば違うかもしれません。ともかくも、自分では無我夢中の10年でしたが傍からは「尚子さんはすきなことだけをしていいわね」といわれる日々だったことは確かです。
何をしたいかと、誰かに勝ちたいということはわたしの場合は違いました。誰に勝つという発想は正直わたしには新鮮でした。対戦型のゲームをしているときは違いますがw それは仙石さんといささかのやりとりがあった当時でもたぶん同じだったのではないかなあ。無論研究者を目指していた当時は競争は避けられませんし、何かをするための場所を手に入れるために勝つということが私の思考から無縁であったというつもりもありません。ですが何かを極めるということと競争ということが必ずしも結びつく必要はないのではと思い、これをしたためる次第です。
今後より一層のご活躍を願いつつ
Comment by 木津尚子 — 2011年11月29日 @ 12:52