唐突に何かを「ひらめく」という経験は誰しもあるだろう。 「ひらめき」が天から降ってくる、というのは考えにくいので、 意識はしていないものの何らかの思考が脳の中で行なわれ、 その思考の結果が意識にのぼったとき、 「ひらめく」と考えるのが自然だろう。
この意識していない思考、すなわち「無意識の思考」を積極的に活用すれば、 同時に沢山のことを考えられる。 時間を効率的に使えるだけでなく、 自身の脳の中で何が起きているのか理解するきっかけになるのではないかと、 今まで考察を重ねてきた:
意識の「下」に、意識を支える広大な「無意識」がある、 というイメージで考え、 その無意識をもっと活用したい、という思いからいろいろ考えてきたわけであるが、 前野隆司氏のページを読んで、 文字通り天地が引っくり返ってしまった:
「脳はなぜ『心』を作ったのか」から引用:
1つの面白い実験結果がある。 人が指を動かそうとするとき, 脳の中の,「動かそう」と意図する働きを担う部分と, 筋肉を動かそうと指令する運動神経が, どんなタイミングで活動するかを計測したカリフォルニア大のリベット博士の実験だ。 結果は実に意外だった。 筋肉を動かすための運動神経の指令は, 心が「動かそう」と意図する脳活動よりも,0.5秒も先だというのだ。 常識的に考えると,まず人の心の「意識」が「動かそう」と決断し, それにしたがって体が動くと予想されるのに,結果は何と逆なのだ。
そうだったのか! それで全て辻褄が合う!
人の「意識」とは, 心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて, 人の心の「無意識」の部分がやったことを, 錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。
まさに、 地球が宇宙の中心で、太陽や星が周囲を回っていると思っていた人が、 地動説を聞かされたときの気分だった。 「無意識の思考」と「意識した思考」の二種類があるのではなく、 「無意識の思考」が全てだったとは。
「あとで把握するための装置」という説明は私にとって、 とても納得のいく考え方だ。 すなわち、無意識の思考は様々なことを「同時に考えている」が、 実際に何を考えていたか、ほとんど忘れてしまう。 ごくわずかな例外が、「意識にのぼった思考」、否、 「意識という記録装置」によって「すくいあげられた思考」ということなのだろう。
同様のことが「夢」にも見られる。 外部刺激が夢に影響を与えることがある。 例えば、目覚まし時計が鳴る音が、 夢の中で電話の呼び出し音として登場するなど。 しかし、因果律で考えれば、目覚まし時計が鳴ることが原因で、 夢の中で電話が鳴ることが結果であるはずだ。 なぜ、
- 夢の中で、何かをしているとき、
- 電話が鳴る音を聞き、
- 受話器を取り上げようと行動しているうちに、
- 目覚め、
- 目覚まし時計が鳴る音を聞く、
という順番になるのだろうか? 電話が鳴る前に何も夢を見ていないのならまだ理解できるが、 夢なりに脈絡があるシチュエーション (1) で電話が鳴る (2) のである。
どうして外部からの刺激 (2) が原因なのに、 それが結果となるような夢 (1) を「たまたま」見ることができるのか、 とても不思議だった。 私が考えた仮説は、 外部刺激を受けた一瞬のうちに、 夢の全て (1)~(3) (電話が鳴る前の全ての状況を含む) を見て、 そして目覚める、というものだった。
「夢」とは、 寝ている間の無意識の思考の一部を「すくいあげた」ものである、 と考えれば辻褄が合う。 寝ている間、無意識の思考は勝手にいろいろなことを考えるが、 そのほとんどは忘れてしまう。 唯一例外的に覚えているのは、「夢」として意識したエピソードなのであろう。 だから、時系列でいうと、
- 様々な無意識の思考が進行中...
- 目覚まし時計が鳴る
- 目覚まし時計の音の刺激を受けて、無意識の思考「電話が鳴る」が進行する
- 目覚める
- 「電話が鳴る」思考が、「夢」として意識される
「意識」は元々、「無意識の思考」の後に来るものなので、 因果律的には矛盾がない。 つまり、電話が鳴る音が先で、目覚めるのが後、と 意識する (正確に言えば、そういう記憶が残る) のは錯覚に過ぎない。 意識とは元々そういうものなのだ。
意識とは、脳というコンピュータにおけるロガー (unix で言うところの syslog ;-) に過ぎないのだろう。 つまり、自由意思で何かをしようと決断し、何か行動を起こす、のではなく、 「決断して行動した」という「記憶」が残っている、ということなのだろう。
にわかには信じがたい (人によっては不快とさえ思うかも知れない) 説ではあるが、 「単純なものほど真実に近い」はずであり、 「意識」が「エピソード記憶」のためにある、 という説はとても単純であるように思われる。 ちょうど、「地動説」が (ガリレオの時代の人々にとっては) 信じがたい説であったが、 惑星の見かけの動きを単純に説明できたように。
さっそく前野隆司氏の著書:
脳はなぜ「心」を作ったのか
「私」の謎を解く受動意識仮説
前野 隆司 著
を注文した。 将来のロボットは、本当に心を持つことができるようになるのだろうか?
興味があっていろいろ調べてるのですが、意識は錯覚です系の答えって、結局、解明したかった「意識」と言うものは、思ったほど重要ではなかった。本当に解明しなければならないものは「無意識」であった、申し訳ない、と言うふうに聞こえてしまいませんか?それこそ、クオリアってやつが感じられないと言うか。
要するに問題が摩り替わっているだけで、じゃぁ、無意識ってどんなものなのよ?という問いは残りそうですし、その本質は、初めにあった意識とはなにか?という問いと同等か(もしかすると、無意識は意識より知覚が難しい分)より難解な問いである気がします。
うーん、どうなんでしょう?個人的にはあまり納得できないのですが。
Comment by 通りすがり — 2013年1月27日 @ 20:57
「無意識」の解明は既にかなり進んでいると思います。
確かに、「内省」という方法で「無意識」を知覚するのは「意識」と同程度に困難ですが、「無意識」の振る舞いは、心理学的にもコンピュータサイエンス的にも研究が進んでおり、かなり正確な予測が可能となっています。つまり部分的には「無意識」と同じように振る舞う「ソフトウェア」を作ることができます。
意識が何であるか分からなかった時代、チューリングテストが考案されました。すなわち、意識がなんであるかはひとまず置いておいて、人間と同じように振る舞う機械が作れれば、それは知的であるということにしようという提案です。もちろん、チューリングテストに合格するソフトウェアは、現時点でも完成していないのですが、特定分野に限れば人間以上に知的なものが多数開発されています。
受動意識仮説が主張するように、「意識」が生物進化の延長線上にあるものであれば、生物の行動をよりよく模倣するソフトウェアを開発することによって、人間の「無意識」そして「意識」も実現できるでしょう。そしてそれはそう遠くない未来であるように思います。
Comment by hiroaki_sengoku — 2013年1月28日 @ 00:40