いま読んでいる本:
フェルマーの最終定理 (文庫)
サイモン シン 著
の中につぎの一節を見つけた (323 ページ):
大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。 考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、 それは必ずしも必要ではありません。 とくに、袋小路に入り込んでしまったり、 未解決の問題にぶつかったりしたときには、 定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。 新しいアイディアにたどりつくためには、 長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。 その問題以外のことを考えてはいけない。 ただそれだけを考えるのです。 それから集中を解く。 すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。 そのとき潜在意識が働いて、 新しい洞察が得られるのです。
ついにフェルマーの最終定理を証明したワイルズの言葉であるが、 「潜在意識が働いて、新しい洞察が得られる」という部分に大変共感を覚えた。 「どうやったら無意識の思考をより活性化させることができるか」 考え続けてきた私としては、 我が意を得たりの感がある。
どうすれば無意識の思考をより働かせられるか、 ワイルズは「長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない」と 表現した。 私は「同時に考えよう (1)」で書いたように、 「日頃から深く考え続けているような事に関しては、 ひらめく頻度が高いように感じる。 おそらく無意識で考え続けているのだろう」と思う。 意識した思考を長時間続けることが必要、 という点で共通しているのが興味深い。
なぜ、無意識の思考を働かせるには、 長時間の意識した思考が必要なのだろう?
なぜ、新しい洞察は、 意識した思考によってではなく、 無意識の思考によって得られるのだろう?
自身の脳の中で何が起っているのか、 そもそも無意識の思考とは何なのか? それが分かれば、 もっと「頭を使う」ことができるかもしれないし、 また自らの能力の限界がどのあたりにあるのか知ることも可能だろう。 ホフスタッターが言うように、 おそらく自由意思は錯覚なのだろう。 受動意識仮説は 「不思議の環」をとてもうまく説明する。
ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環 (単行本)
ダグラス・R・ホフスタッター 著
とはいえ、
脳が自分自身の動作原理を理解する、
などということが本当に可能なのだろうか?
自己言及の環となってパラドックスに陥ったりしないのだろうか?
マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉 (単行本)
ダグラス・R・ホフスタッター/ダニエル・C・デネット 編著
の中の、クリストファー・チャーニアクの短編 「宇宙の謎とその解決」(第17章) に出てくる 「謎の昏睡」を、ふと思い出した。
はじめまして、VIVAと申します。貴ブログの、サイモンシンの記事を拝見しまして、ついコメントさせていただきました(笑)。TBさせていただきました。
Comment by VIVA — 2006年8月27日 @ 17:10