昨年に続き、
今年も立命館大学で 2, 3回生の学生さん達に講義する機会を頂きました。
就職を目前にした学生さんが自分の進路を考えるにあたって、
社会人の話を聞いて参考にしようという趣旨のカリキュラムのようです。
私は 8人目、
ちょうど真ん中あたりだそうです。
「社会人の話」
というと実際にどのような仕事をしているかとかの、
会社視点の話が多くなりがちだと思いますし、
学生さん達もそういう話を期待していると思うのですが、
あいにく私は現在は働いていません (^^;)。
会社を辞めたのは 2011年ですが、
それまでの 11年間も取締役だったので、
いわゆるサラリーマン的な働きかたをしていたのは 15年以上も昔 (前世紀!) の話で、
すでに忘却の彼方です。
こんな状況で仕事の話はできるわけはなく、
ならばいっそと、
会社視点の話はヤメにして会社と対峙する一個人の視点からお話ししました。
会社で研究者・技術者としてバリバリ専門的な仕事をしている人たちの話とは毛色が違いすぎて、
戸惑っている学生さん達も多かったようですが
(40代で働いていない、
というのは学生さんにとってそれなりのインパクトがあるようです)、
学生さん達がこれからの人生を考える上で多少なりとも参考になれば幸いです。
これから社会人になろうとする学生さん達がまずやるのは
「自分探し」
「自己分析」
で、
さらに自分のこれからの人生を切り拓くための戦略を考えたりするそうです。
「自分戦略」
をググると、
「自分のやりたいことを明確にし、それを実現するための手段を練ること」
などと出てきます。
私が学生の時、
自己分析したり戦略を練ったりしてたかなぁ?
ぜんぜん思い出せません。
コンピュータにのめり込んでコンピュータを自作してしまったり、
授業そっちのけでソフトウェア開発のアルバイトに没頭したりした記憶はあるのですが、
将来のことなど考えたことは無かったように思います。
私が新卒で就職したのはバブル崩壊真っ只中の 1992年です。
就職氷河期 (1993年〜) に入る直前にギリギリ滑り込みました。
その後の世代と比べれば恵まれた時代だったのでしょう。
とはいえ、
就職でラクをしたぶん昨今ではバブル世代と揶揄されて、
厳しい社会人生活を余儀なくされている人も多いようですが。
そんな中で私が今でもラクできているのは何故なのか?
振り返ってみると、
将来のことを考えなかった割に、
実はとても
「戦略的」
な人生を歩んできたように思います。
「結果論」
とか
「後講釈」
のように見えるかもしれませんが (^^;)、
私の実例を
「単に運が良かっただけ」
と切り捨てるか、
「自分戦略」
として参考にすべき点があるか、
判断は読者のみなさんにお任せします。
私と違って、
いまの学生さん達は
「自己分析」
とかに余念がなく、
それはとても結構なことだと思うのですが、
「自分のやりたいこと」
ってそんなに明確ですか?
「なりたい自分」
と
「やりたいこと」
を混同してませんか?
私にとって
「研究者」
は
「なりたい」
職業でしたが、
研究は
「やりたいこと」
ではありませんでした。
(アルバイトの経験を除けば) まだ働いたこともないのに、
これからどんな仕事をしていきたいのか明確なはずはないと思うのです。
自己分析をすればするほど分からなくなる、
あたりが関の山じゃないでしょうか?
で、
実際の会社選びとなると、
(学生さん達の間で) 人気がある企業とか、
初任給 (or 平均給与) が高くて福利厚生がよい企業とか、
職場環境がよい企業とか、
ブラック企業は何としても避けなければとか、
「自分戦略」
というお題目とは裏腹に、
えらく近視眼的で、
自分の将来どころか数年先すら見通せていないのが現状ではないでしょうか?
自分戦略?
・ 「自分のやりたいことを明確にし、
それを実現するための手段を練ること」
・ やりたいこと?
- 将来も、やりたいことが変わらないのか?
- 何が向いているかも定かでないのに
・ やりたいことをやって、その後は?
- 体力が衰えて同じようには働けなくなる
・ とりあえず給料の高い会社へ就職
- 福利厚生・職場環境がいいところ?
- 社会貢献できるところ?
・ 将来どころか数年先すら見通せていない
3
初任給が高くてもその後の昇給ペースが遅ければ意味がないし、
平均が高くても自分の給料が平均以下なら意味がないし、
平均が低くても自分の給料が高ければ問題無いわけです。
職場環境だって、
会社の中での立場が変われば変わってきます。
新卒入社一年目の社員から見れば快適な職場環境が中堅社員から見ると最悪だったり、
極端な話、
誰が自分の上司になるかで大きく変わることもあります。
そもそも、
現在の
「やりたいこと」
を一生続けたいですか?
みなさんが今から 10年前、小学生だった時に
「やりたい」
と思っていたことが、
今でも
「やりたいこと」
なのか考えてみれば明らかでしょう。
今から 10年後には、
今とは全然違うことが
「やりたい」
と思っているかもしれません。
「やりたいこと」 を一生続ける?
・ やってみたら実際は違った
- プログラミングじゃなくてニーズの汲み上げ
- 経験を積むと嗜好は変わる / 体力は落ちる
・ そもそも幸せな人生とは?
- ネガティブにならないこと
- ネガティブの根本にはいつもお金の問題
- お金の召使いになってはいけない
・ 年功序列の崩壊
- 「やりたいこと」 だけでは老後破綻一直線
- みんなが年金を頼ると国家破綻一直線
5
それなら、
今
「やりたいこと」
よりも、
「やりたい」
ことを見つけた時に、
それを
「やれる」
自由度こそが重要ではないでしょうか?
社会人を何年もやっていれば、
予想できない偶発的なことがいろいろ起きます。
その中には自分のキャリアを大きく左右するような事象もあることでしょう。
その偶発的な事象を
「計画的に導くこと」
で、
自分のキャリアを良いものにしていこうという考え方が、
ジョン・D・クランボルツの
「計画的偶発性理論」
です。
成功者を見ると、
「あの人は運が良かった (だけ)」
と思ってしまい、
運に恵まれない自分は決して同じようにはなれないと、
諦めてしまう人が多いのだと思いますが、
運が良くてもその運を活かせなければ成功できません。
「運に恵まれない」
のではなく、
せっかく訪れたチャンスに気付いてないだけかもしれませんよ?
「チャンスは備えあるところに訪れる」
のです。
人生には分岐点が沢山あります。
たとえ八方塞がりに思えるドツボな状況に陥ってしまっていても、
その後の分岐点で最適な選択さえできれば、
ピンチが逆にチャンスになったりします。
ただしそれは、
分岐点に選択肢の幅が十分にあればの話です。
ところが大多数の人はこの
「選択肢」
を進んで捨ててしまいます。
「やりたいこと」
があっても、
いろいろ言い訳 (「時間がない」
「お金がない」
「自分の今の実力ではムリ」
等々...)
して挑戦を躊躇います。
ぐずぐずしているうちに歳をとり、
選択肢がどんどん狭まっていくわけです。
なにごともやってみなきゃわからないと思うのですが、
やるまえから
「どうせダメに決まってる」
と諦めてしまっていては選択肢は広がらず、
成功を遠ざけてしまいます。
また、
実際やってみてダメだったとしても、
果敢に挑戦することによって新たな選択肢が現れてきます。
まさに失敗は成功の元ですね。
「運が良い人」
というのはそうやって
「運を引き寄せる」
のです。
(戦略1)
選択肢を減らさない
・ 「自分のやりたいこと」 って明確じゃない
- 「自分探し」 は時間の無駄
- いろいろ学ぶと興味が持てることが変わってくる
- やりたいことは手当たり次第やってみるべき
・ リスクを取らないリスク
- 「みんなと同じ」 はリスク最大
- 歳をとるごと選択肢は容赦なく減っていく
・ 別の道へ変更する選択肢は残しておく
- 最悪の事態を常に想定する
・ 計画的偶発性理論
- チャンスは備えあるところに訪れる
6
選択肢を減らさないようにして (戦略1)
運を引き寄せることができたら、
次に必要になるのが運を活かす能力です。
多くの業界において一番重要な能力は
「論理的に考える力」
でしょう。
ところが現代の学校教育は、
この
「考える力」
を伸ばす点においてあまり有効ではないようです。
より正確に言うと、
考える材料をたくさん提供している点においては有効なのですが、
それはあくまで元々考える習慣を持っていた学生さんに対してのみ言えることであって、
義務教育の課程で考える習慣を身につけることができなかった学生さんは、
高等教育において、
ますます考えなくなってしまうという悪循環に陥っています。
極めつけは、
会社選びで
「自分の気持ちを大切に」
などと言う人ですね。
自分の将来という一番合理的に考えなければならない時に、
それも高等教育をちゃんと受けた人が、
「自分の気持ち」
すなわち感情を優先するなんてアリエナイと思うのですが、
いったん考えなくなってしまった人たちは、
自分の気持ちに従うことをオカシイとは思えなくなってしまうようです。
誰でも (どんなに地頭のいい人でも)
一人では考える力を伸ばすことはできません。
なぜなら
「考えたつもり」
に陥って、
そこで思考停止してしまうからです。
自分の考えを他人に話したり書いたりして、
他人から何らかの反応 (批判とか)
を受け取って初めて考えるきっかけが生まれるのです。
自分の考えを文章にしてみるだけでも、
自分がどのくらい考えているか (あるいは考えていないか)
分かる場合もあるでしょう。
たとえば、
「答がある問題を解いているだけでは考える力を伸ばせない」
と言ったりしますが、
なぜ 「答がある問題」 じゃダメなのか考えたことはありますか?
「現実の社会は答が無い問題ばかりだから」
という説明で満足してしまっていたとしたら要注意です。
現実社会の問題に答が無いからと言って、
答がある問題を解く練習が役に立たないことにはならないですよね?
中途半端な説明で満足してしまっているのは、
「分かったつもり」
そのものです。
だから、
授業を聞いているだけではダメなんです。
分かっているつもりで聞いていても、
いざそれを自分の言葉で表現しようとしたら、
ぜんぜん言葉が出てこないなんてことがよくあります。
学校教育で考える力が伸びない理由がここにあります
(もともと考える力があった人は教えなくても伸びるのでここでは除外して考えます)。
言いたいことがあれば先生の話を遮ってでも発言し、
自分が
「考えたつもり」
に陥っていないか常に確認する必要があります。
幸い、何を言っても許されるのが学生の特権です。
社会人だとキャリアに終止符を打ってしまいかねない発言すら、
学生なら
「若いから」
ということで許されてしまいます。
どうかこの特権をフルに活用して、
「自分の考えを発言する」
習慣を、
学生のうちに身につけてください。
はじめに
・ ぜひ、この場でしかできないことを
- 聞くだけなら、私のブログを読むだけで充分
・ 分からないことはすぐ質問
- あとでググればいいやなどと思わないように
・ 言いたいことがあればすぐ発言
- うまく言おうとしないこと
- 最初は誰だって下手くそ。場数を踏んで上手くなる
・ 空気を読んではいけない
- こんな発言したら浮く?とか考えていてはダメ
1
ハワード・ガードナーの多重知能理論によれば、
人間は進化の過程で
- 言語的知能
- 論理数学的知能
- 音楽的知能
- 身体運動的知能
- 空間的知能
- 対人的知能
- 内省的知能
- 博物的知能
の8つの知能を発達させてきたとされます。
このうち、科学技術とりわけ IT 技術の進歩により
2, 4, 8 の知能はどんどん重要ではなくなりつつあります。
あと 10年ほどで大半の職業が消えるとか言われていますね。
また、現代社会においては (特定の職種を除けば) 3, 5 は、
さほど重要とは言えないでしょう。
残るは 1, 6, 7 ですが、
なかでも他の知能を伸ばすメタ知能ともいえる
「7. 内省的知能」
が一番重要でしょう。
すなわち、自分自身の
「心」
を理解してコントロールする能力です。
7 の能力を他者に対して発揮すれば 6 になりますし、
1 が重要なのは主に 6 のためですから、結局 7 が一番重要ということになります。
現代社会では何かというと
「自分の気持ち」
を重視する傾向
(自分の気持ち至上主義) がありますが、
自分の気持ちのままに生きれば、
内省する機会は失われてしまいます。
知能は繰り返し発揮することにより伸びるものですから、
内省する機会があまりなければ、
内省的知能が未発達のまま成長してしまうことになります。
(戦略2)
合理的に考える
・ 「お気持ち」 至上主義
- 「いまのお気持ちは?」
- 自分の気持ちを大切にしていてはダメ
・ もっと頭を使おう!
- 使えば使うほど頭はよくなる
- 授業を聞いているだけではダメ
・ 金融リテラシー = 「恐怖と欲望」 のコントロール
- 内省的知能
・ 失敗は成功の元
- 成功できないのは 「失敗」 が少なすぎるから
- リスクを負わなければ失敗も無い
7
運を引き寄せ (戦略1)、
運を活かす能力を磨いたら (戦略2)、
最後に必要になるのが
「敵」
を知ることです。
これから社会に出ていく学生さんが、
当の社会のことを知らなければ出だしから躓くのは必至です。
残念なことに、ここでも学校教育はあまり有効ではありません。
先生がたは社会の矛盾点・問題点を追求することがお好きなようです。
もちろん批判的精神は重要ですし、
社会のあるべき姿を論じ、
学問の力で社会をよりよい形へ変革していくことは大学の使命とも言えるでしょう。
しかし学生さんはその
「社会」
の中でこれから生き抜かなければならないのです。
すでに
「エスタブリッシュメント」
な先生がたなら、
社会を批判しているだけでも周囲から一目おかれますが、
体制の後ろ楯もなく、
何の権力も持たない学生さんがいきなり社会を批判したって、
返り討ちに遭うだけです。
学生さんに今必要なのは、
理想社会の戯言ではなく、
現実の矛盾だらけ欠陥だらけの社会が実際にどう動いているか、
そして丸腰でそういう社会に飛込んで生き抜く方法です。
言うまでもなく現代社会は資本主義社会です。
お金の仕組みを知らずに社会に出ていくことは、
カモがネギをしょって出ていくようなものだと思うのですが、
どうして先生がたはそれを止めようとしないのでしょう?
特にウブな理系の学生さんは、
「優れた技術は高い給料で報われるべき」
などと考え、
社会に出ても自身の技術を磨くことばかりに夢中になってしまいます。
こういう勘違いは実に悲劇的だと思うのですが...
仮にも最高学府で学んでいる学生さん達が、
「努力は報われる」
などといったような素朴な労働観をいまだに持っていることに、
あらためて驚かされます。
製造業 (あるいは農林漁業) が産業の中心だった時代ならば、
労働者一人一人の
「努力」
が生産量の多寡に反映したこともあったでしょう。
労働者にとっても自らの努力の結果が目に見えるので、
努力の方向を間違えることはありません。
生産量が多い労働者の稼ぎが増えるのは合理的ですし、
周囲の納得感を得ることも難しくありません。
しかし今や企業の利益は数多くの労働者の連係プレーによって生み出されています。
技術者だけではお金にはなりません。
努力の結果がすぐに利益の増大という形で見えることは稀で、
あさっての方向の努力をしてしまうことも珍しくありません。
誰がどのくらい利益に貢献しているかなんて (合理的に)
測定することは不可能でしょう。
誰もが納得する利益配分なんて、
それこそ人月で測るくらいしか無いのが実状です。
努力の方向がズレていて残業ばかりしている
(傍目には一生懸命努力しているように見える) 人と、
的確な判断のもと効率的に仕事を進めて短時間で仕事を終える
(傍目にはあまり努力していないように見える) 人と、
どちらを評価すべきでしょうか?
もちろん後者の方が会社に貢献しているのですが、
前者を冷遇すると納得感が失われて社内に不満が溜ります。
つまり、
資本主義が言うように、
給料は労働の対価ではなく、
単に労働力の再生産
(つまり労働者が次の日も納得して働いてくれること)
に必要な
「コスト」
に過ぎません。
労働者の技術の優劣と、給料の高低との間に、直接の関係はありません。
もちろんモチベーション向上のために関連性を
「演出」
することはありますが、
結局のところ給料は多くの人が納得する
「相場感」
で決まってくるのです。
努力が報われないなんて、
そんな社会は間違っている!と思いたい気持ちは重々分かりますが、
実際の社会はそういう仕組みなのですから否定したところで始まりません。
努力を認めてもらいたければ、
「努力は報われるべきだ」
なんて受け身なことを言ってないで、
戦略的にアピールして昇給を勝ち取るべきです。
その際、
「労働力を売らない自由」 (後述)
があると昇給交渉をより有利に進めることができるでしょう。
(戦略3)
(社会に出る前に) 社会を理解する
・ 学校では社会の問題点ばかりを学ぶ
- 社会を変えようとする人ばかり量産している
- 学問の力で社会を変革する、それは大事だけど…
・ 現実の社会=お金の仕組み
- お金の仕組みを理解しないと搾取される人生に
- 社会を知らない学生さんは 「カモネギ」
・ みんなの勘違い
- 優れた技術には高い給料で報いるべき?
- 給料は労働の対価ではない!
- 搾取 ≠ ブラック企業
・ 労働分配率が上がっても消費へ回してしまう
- 搾取され続け、一生 (嫌々) 働き続ける羽目に
8
学生さんにとって、
とりわけ喫緊の課題は資本主義社会における
「搾取」
の構造です。
現代における
「搾取」
を正しく理解しない限り、
搾取の餌食になってしまいます。
社会を変革するどころか、
その遥か手前で力尽きてしまうことでしょう。
搾取というとすぐブラック企業を思い浮かべる人が多いと思いますが、
ブラックのレッテルを貼られた企業の業績があっと言う間に悪化したように、
給料を安く抑えようとする手法 (サービス残業とか名ばかり管理職とか)
は現代社会においてはあまり賢いやり方とは言えません。
本当の、そして最も警戒すべきは、
搾取と気付かれないだけでなく、
むしろ進んで搾取されることを多くの人が望むような搾取です。
資本主義社会において労働者の立場が弱いのは、
自身の労働力を売らない自由が無い (辞めると生活できなくなる) からです。
通常の売買契約でも売り手が (安い価格でも)
売らざるを得ない
(閉店時間間際の生鮮食料品売場とかが該当しますね)
のであれば (足元を見られて) 損をするように、
労働力を売らないという選択肢が無ければ、
労働条件に不満があっても受け入れざるを得ません。
したがって、
半年くらいは働かなくても生活できる程度の貯金 (数百万円?) さえあれば、
労働者の立場は劇的に改善するはずです。
しかも、
昨今は給料を安く抑えようとすると、
すぐ
「ブラック」
のレッテルを貼られてしまいますから、
給料が生活費ギリギリということはあまり無く、
本来ならば貯金にまわす余裕があるはずです。
ところが、
給料が上がっても同じくらい支出も増えてしまってほとんど貯金できない、
という人がほとんどのようです。
給料半年分どころか、100万円の貯金すら無い人が多いとか。
いったい何にそんなにお金を使っているのでしょうか?
初任給が 300万円/年だった人が 400万円/年に昇給して、
何年たっても 100万円すら貯金できないというのは意味不明です。
お金をついつい使ってしまう人に是非考えてほしいのは、
資本主義の世の中では、
いかに消費者にお金を使ってもらうか必死に考えている人が大勢いるってことです。
ほとんど全ての場合において、
お金を使いたいと自発的に消費者が思っているのではなくて、
お金を使わせたいとあの手この手で誘惑している人がいて、
消費者はまんまとその策略に乗せられてしまっているだけなのです。
お金を使う決断をする前に、
はたしてその金額が自分の身の丈に合っているか考えてみるべきでしょう。
給料が少なかったときはお金を使わずに我慢できていたことであれば、
それは決して必需品ではありませんよね?
知能が先天的なものか後天的なものか本当のところはよく分かりませんが、
たとえ先天的なものが支配的であったとしても、
マシュマロを我慢する自制心は鍛えるべきだと思います。
「子どもでも大人でも自制心を育むことは可能」なのですから。
支出を増やしてしまうこと以上に問題なのが借金することです。
年収の 5倍もの借金をかかえて、
借金を返すためだけに働いているような人もたくさんいます。
まさに銀行の
「奴隷」
ですね。
なぜ身の丈を大きく超えるような金額の住宅を買わせようとするのでしょうか?
言うまでもなく巨額のローンを組ませて銀行が儲けるためです。
労働者が生み出した剰余価値を奪うことによって、
労働者を労働者階級に固定化することを搾取と定義するなら、
こうした貯金させない社会の仕組みこそが現代の搾取と呼ぶにふさわしいと思います。
(戦略3)
お金の仕組み
・ 給料とは労働力の再生産のためのコスト
- 「努力は報われる」 はプロパガンダ
- 報われるのはリスクを負った人のみ
・ 生産者になる前に一人前の消費者に
- 小学生のころから消費の仕方を学ぶ
- 時給アルバイトは時間の切り売り。生産ではない
・ 消費の誘惑に満ち満ちている = 搾取の構造
- なぜ銀行は住宅ローンを勧めるのか?
- なぜ保険会社は保険を勧めるのか?
・ 資本主義=労働者から生産手段を分離
- 生産手段 (知能) を取り戻せ!
9
以上 3点が、
私が意識せずに実践していた
「自分戦略」
です。
意識していなかったくらいですから大したこととは思っていなかったのですが、
ネット時代になって貯蓄額の世帯分布などを手軽に参照できるようになった昨今、
私と同じくらいの給料をもらっていたはずの人たちにおいても、
大した貯金があるわけではないことを知り、
驚いている次第です。
最初の 100万円を貯めるだけでも労働者としての立場は格段に向上するわけで、
強くなった立場を背景に給料交渉を有利に進めて自身の労働力の価格をつり上げ、
加速度的に貯蓄額を増やしていけば、
労働者階級を脱出する (= 働かなくても当面の生活には困らないし、
やりたい仕事を選べる)
ことも現実的な目標となるはずです。
それなのに、
なぜ大多数の人が同様の戦略をとることができないのでしょうか?
「戦略1」 (選択肢を減らさない) は、
自分の適性を知るための戦略です。
世の中は
「自己分析」
が流行りですが、
ちゃんとしたコンサルタントとかに相談するならともかく、
素人の学生さんが一人でやってマトモな分析ができるはずはありませんよね?
「自分のことは自分が一番分かっている」
という思い込みが、
「戦略1」
を実践する障害になっているのではないでしょうか?
実際は、
自己評価より他人からの評価のほうが正しかったりするわけです。
こと自分のことになると、
心理的な防衛本能が働いて真実の姿が見えにくくなります。
自分のことを知るには、
あれこれ考えるより、
やりたいと思うことを実地にやってみるべきです。
とことんやってみれば自分の能力の限界がどのあたりにあるかも、
見えてくることでしょう。
「戦略2」 (合理的に考える) は、
自分の知能を向上させるための戦略です。
小学校から大学まで 16年 (大学院までいけば 18年も!) 学ぶのに、
考える機会がほとんど無いことに驚かされます。
学んでばかりいるから考える機会が失われているのかもしれません。
まさに
「学びて思わざれば則ち罔し」
ですね。
「考える」
という言葉は誰もが気軽に使いますが、
実際のところどこまで考えているでしょうか?
ほとんどの場合、
考えているのではなくて悩んでいるだけだったりします。
自分の考えを主張している時ですら、
他の人の意見の受け売りに過ぎなかったりしますし、
そもそも
「自分の考え」
を表明する機会ってほとんど無いように思います。
facebook だって、
「今どんな気持ち?」
ですし。
ふつーに生活している限り、
気持ちを聞かれることはあっても、
考えを聞かれることは皆無ではないでしょうか?
映画
「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」
で、
「あなたの本当のお気持ちは?」
と聞かれたときのサッチャーの答がふるってます:
なに
私の気持ちってどういうことかしら
最近は考えより気持ちね
どんな気持ち
なんだか気持ち悪いわ
すみません我々の気持ちとしては
これは今の時代の大きな問題ですよ
人々は感情にばかり左右されて
考えやアイディアなんかはどうでもよくなって
本当に面白いのは
考えとかアイディアなのに
私が何を考えているか聞いて
このあと、
例の有名な
「自分の考えが言葉になる、言葉が行動になる、行動が...」
が続くのですが、
そこでは
「考え」
と
「気持ち」
が混同されていて、
私は何だか気持ち悪く感じます。
前段 (上記引用部分) と
後段 (自分の考えが言葉になる...) は、
同じ人の言葉とは思えません。
まあ、後段は
「父の口癖だった」
のかもしれませんが。
斯くして考える習慣がある人はどんどん知能を向上させていき、
習慣が無い人はどんどん差を付けられていく、
という二極化が進んでしまっているのでしょう。
経済的な格差ばかり注目される昨今ですが、
本当の格差は
「知能」
の格差であって、
経済的な格差はその派生物に過ぎません。
そして
「戦略3」 (社会を理解する) は、
金融リテラシーを身につけるための戦略です。
社会に関する誤った常識が、
社会の本質を理解する妨げになります。
お金を使わせたいと誘惑する側が、
誤った知識を広めようとしているのも、
妨げになっていますね。
誤った知識とは、
例えば
「賃貸より購入の方が良い」
といったようなものです。
その
「知識」
を広めようとしている人
(マンション開発業者とか不動産屋とか銀行とか)
が、
その知識が広まることで利益を得ているならば疑ってかかるべきでしょう。
「毎月家賃を払い続けても永遠に家は自分のものにならないが、
ローンなら完済すれば家が自分のものになる」
などと言われて騙されてしまう人が沢山います。
家賃を払う人には安い家に引っ越して負担を減らす自由がありますが、
ローンを抱えている人には負担を軽減する自由はありません。
つまり選択肢を減らしてしまっているわけです。
したがって、
「購入 VS 賃貸」 という比較はナンセンスです。
「戦略3」
を実践する最大の障害が、
お金にまつわる感情です。
ほとんどの人が、
「お金がなくなる恐怖」
と
「お金がもっと欲しいという欲望」
の二つの感情に支配されていて、
お金について合理的に考える余裕が無くなっています。
これでは金融リテラシーを身につけることはできません。
「お金になんか興味はない」
「仕事が好きだから働いているんだ」
と言う人もいますが、
そういう人は今の仕事が好きでなくなったら、
働くのを辞めるのでしょうか?
辞めても生活に不自由しないのであれば問題ありませんが、
多くの人はそうではないはずです。
つまり
「興味がない」のではなくて、
お金について本当は考えなければならないのに、
それを直視できていないだけです。
心理学で言うところの
「否認」
ですね。
「仕事が好きだから働いているんだ」
は
「合理化」 (防衛機制の一つ)
でしょう。
なぜ戦略的に動けないか?
・ 戦略1 ⇒ 自分の適性を知る
- 自分のことは (他人のことより) 知るのが困難
- 心理的な防衛機制が働く
・ 戦略2 ⇒ 論理的に考える力を鍛える
- 直観や気持ちを優先してしまう
- 自分の考えを発表する機会が皆無
・ 戦略3 ⇒ 社会の本質を見抜く
- 「常識」 に囚われてしまう
- 大人たちが 「カモネギ」 を狙ってる
10
以上のように、
この 3点の戦略には、
それぞれ実践を難しくしている要因がありそうです。
ではなぜ私は実践できたのか?
やりたいことは先送りにせず、
とことんやってみる性格だったのが大きいように思います。
当時は計画的偶発性理論など知らなかったのですが、
何かやりたいと思うより先に行動していました。
やりたいと意識しないうちに、
気が付くと既にやっているみたいな感じで。
また、
知らないことを見つけるとすぐ首を突っ込んでいました。
コンピュータ分野に限らず、
数学、物理学、哲学、社会学、果てはテニスに至るまで、
自分に向いてるかどうかなんて考えずに、
やれるところまでやってみる、
ということを繰り返していました。
戦略1 (選択肢を減らさない) ですね。
中学校 (1979年) の部活動でマイコン部 (当時 PC は
「マイコン」
と呼ばれていました)
に入ったのですが、
そのオリエンテーションで
BASICっていう言語を使ってプログラミングをするという話を聞いて、
その日のうちに都心の一番大きい本屋へ出かけていって、
当時一冊しかなかった BASIC の入門書
「BASICで広がる世界」 (CQ出版社, 1979年発行) を買って一気に読み、
次の日にはもうプログラムを書き始めていたほどです。
子供のころから好奇心旺盛だった私ですが、
実を言うと考えることは不得手でした。
小学生の時はよく
「分かったつもり」
に陥っていました。
学校のテストで答案によくデタラメを書いたものです。
しかもデタラメを書いているという意識はなく、
自分は分かっていると思い込んで、
正しい答を書いているつもりだったのです。
中学一年生のとき数学のテストで赤点 (30点未満) をとったこともあります。
ところが中学生になって、
とても優秀な同級生が現れたのです。
彼は、一を聞けば十を理解する。
あまりに早く
「分かった」
というので、
信じられずに残りの九を説明しようとすると、
先回りして答えられてしまったほど。
そんな彼が
「分からない」
を連発する。
つまり
「分かった」
と言うのも早いが、
「分からない」
と言うのもとても早かったのです。
そんな彼を見て、
私は
「分からない」
と言えるのはカッコイイことなんだと思うようになりました。
なんとかして自分も、
「分からない」
と言えるようになりたい、
と思ったのでした。
いま思えば、
これが私の人生の転機だったのかもしれません。
戦略2 (合理的に考える) ですね。
以来、
考えるのが好きになり、
大学受験に失敗したのをいいことに、
浪人中の一年間に弁証法とか資本論とかの難しそうな本
(といっても初学者向けの教科書ですが)
を手当たり次第に読みまくりました。
難しそうなテーマであればあるほどチャレンジしたくなったのです。
これが資本主義についてもっと知りたいと思うきっかけになりました。
戦略3 (社会を理解する) ですね。
実はこの時、
人文系の本を読みすぎたせいで、
文系へ転向しようかと思ったほどです。
プログラミングの方が好きだったので思い止まり、
結局一年目と同じ情報工学科を再び受験したのですが。
今から思うと、
お金を稼ぐ前に社会の勉強を始めたのは幸いでした。
浪人中はお金が無かったので、
消費したいという欲求が全く起きなかったし、
資本主義について学び始めた後は、
「搾取の構造」
を理解したので消費の誘惑に負けなくなったのです。
収入が増えても消費は増えなかったので、
収入の増分を丸々貯金することができました。
もし現役で大学に合格していたら、
順序が逆になって、
勉強を始める前にアルバイトでお金を手にして、
搾取の罠にはまっていたかもしれません。
いっぽう、
大学生のときパソコン通信や
JUNET を知って (1989年)、
これを駆使すれば個人でも有名になれると思ってからは、
どうやって自分を売り込めばいいか考えるようになりました。
企業にとってブランドが最重要であるように、
個人にとってもブランドが資産になると考えたのです。
合理的に考えれば当たり前のことですよね。
もちろん最初は何をすれば自分を売り込めるのか見当もつかなかったのですが、
いろいろ試行錯誤しているうちに、
それなりに注目を集めることもできるようになり、
初めて書いたオープンソース・ソフトウェアである
stone は、
そこそこ有名になりました。
私は
「stone の開発者」
として多くのかたに覚えていただけるようになったのです。
stone は私にとって最大の
「資産」 (収入をもたらす源) と言っても過言ではないでしょう。
無料で配布しているソフトウェアが最大の資産ってのが面白いですね。
浪人生の時に資本論をかじったこともあって、
大学生になってアルバイトで数十万円の貯金ができると、
すぐ株の売買を始めました
(当時はオンライン取引というとファミコン・トレードだけで、
電話をかけて口頭で売買注文を出したり、
証券会社の窓口で注文したりしていました)。
当時 NTT が株式を公開 (1987年2月9日) したり、
ブラック・マンデー (1987年10月19日) が起ったりと、
世間的に株が注目を集めていたのも、
株の売買を始めようと思ったきっかけの一つだったのでしょう。
もちろん単位株での売買で大した金額ではなかったのですが、
学生にとっては大金です。
損を出すまいと必死になって経済の勉強をしました。
「お金がなくなる恐怖」
が勉強の原動力になったのです。
経済に対する理解が深まれば会社の経営に興味が湧いてくるのは必然で、
2000年に
KLab(株) (設立当時の社名は (株)ケイ・ラボラトリー) 会社設立の計画を聞いたとき、
迷わず飛び付きました。
仮に起業が頓挫しても数年くらいは生活に困らない程度の貯金がありましたし、
当時も技術者は不足していましたから、
ここがダメでも再チャレンジの余地は充分あるだろうと思っていたので、
大企業の正社員という安定した
「地位」
を捨ててベンチャーに飛込むことに、
何の躊躇いもありませんでした。
まさに、
備えがあったからこそチャンスが訪れたのです。
私の自分戦略
・ やりたいことは先送りにせず、とことんやってみる
- 中学1年の時以来、パソコンにのめり込む
- 大学に入ってパソコンを 「自作」
- 大学院生の時、個人事業主としてソフトウェア開発
- 日立に就職後、本業そっちのけでネットインフラ整備
・ 自分ブランド
- 大学で JUNET を知って (1989年) 以来、試行錯誤
- stone の開発・発表 (1995年~)
・ 金融リテラシー
- 小学生の時から株に興味を持ち、大学生の時から売買
- 「金持ち父さん 貧乏父さん」 (2000年)
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それはベンチャーと技術者との出会いでした。
それまでベンチャーを興そうという人と技術者とでは興味の対象が異なり、
両者の出会いはかなり稀な事象でした。
2000年当時は、
創業メンバに
アイディアマン, 技術者, マーケッタ
という多様な顔触れが揃うベンチャーは珍しかったのです。
この会社が現在に至るまで発展し続けているのは、
創業メンバの多様性にこそあったのだと思います。
この偶然の出会いを
「単に運が良かっただけ」
と思うか、
それとも
「戦略的に計画された偶発的事象」
ととらえるか、
判断は読者のみなさんにお任せします。